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2009年10月2日(金)
只今古巣を定期メンテナンス中のitoakiです。 なんだか実家を訪れている気分・・・懐かしいなぁ。 この日記をご覧になって何かご意見・ご質問のある方は、こちらではなく移転先の「ワシントンDC転石生活」コメント欄に書き込みいただけると助かります(特にお返事をお急ぎの場合)。せっかくコメントいただいても気がつかずに、お返事しそこなってしまいます。 よろしくお願いいたします。 # by itoaki | 2009-10-02 06:08
2008年10月15日(水)
先日ご案内した通り、こちらのブログを引越しすることとなりました。 新店舗はこちら↓です。 『ワシントンDC転石生活』 これから徐々に作業をして、ワシントンDCに関する過去のエントリーは全て『ワシントンDC転石生活』に移動し、こちらはミネアポリスに関するエントリーだけの『ミネアポリスつれづれ日記』として保存することにいたします。 引越しに際しまして、申し訳ないのですがこちらのコメント欄は閉じさせていただきます。もし『ミネアポリスつれづれ日記』についてご質問がある場合でも、お手数ですが『ワシントンDC転石生活』にお寄せいただけますよう、お願いしたいます。 それでは『ワシントンDC転石生活』でお待ちしておりま~す! # by itoaki | 2008-10-16 05:41
2008年10月14日(火)
昨日『3周年記念』をお伝えしたばかりですが、実はこのブログを引越ししなければならなくなりました。「煽動的な内容」のために大家(エキサイトブログ)から立ち退きを命じられたのです・・・というのはもちろんウソで、画像の容量が制限(1GB)ギリギリになってしまい、もうブログに写真が載せられなくなってしまったのです。ワタクシitoakiに写真のセンスが欠けているため(涙)、このブログには元々そんなに写真が掲載されているわけではないのですが、やはりなんでも「ちりも積もれば山となる」なのですね。3年間続けているうちに、とうとう画像容量が一杯になってしまいました。画像を載せない限り、このまま今のアドレスでの更新も可能なようなのですが、「今後一切写真無し!」というのはいくらなんでも寂しすぎるような気がしますし、みなさんだって文字ばっかりのブログなんてあんまり読みたくないですよね。 というわけで、近日中に店舗を移転することを決意するにいたりました。今にして思えば4月に「新装開店」をした時に新しいアドレスを取得して出直せばよかったのですが、その時は画像容量なんてものに全く気が回りませんで・・・そのまま表看板だけ掛けなおして同地で営業を継続してしまいました。失敗しました。通常ブログを移転する場合、新しい移転先を見つけてそこで更新を続ける一方、古いエントリーは旧アドレスにてそのまま保存する方法が一般的だと思います。ですが私の場合、この際なので4月の時点まで遡って旧「ミネアポリスつれづれ日記」と「ワシントンDC転石生活」(新アドレスを取得)に分けたいと考えています。つまり、現行のhttp://mnpls.exblog.jp/ のアドレスでは「ミネアポリスつれづれ日記」の旧エントリーを保存し、新しいアドレスを取得後4月からの「ワシントンDC転石生活」としてエントリーを移動し、そこで今後の更新を続ける計画です(上手く行けば、ですが・・・)。 なので、今後いつかの時点でhttp://mnpls.exblog.jp の看板がまた「ミネアポリスつれづれ日記」に戻っている可能性がありますが、どうぞびっくりなさいませんように。みなさまにはトップページで新しい移転先をご案内いたしますので、ご面倒ですがそこから新店舗にお越しいただけるとうれしいです。ご面倒をおかけいたしますが、新店舗においても変わらぬご愛顧をどうぞよろしくお願いいたします。 それにしても、引越しか・・・。 ちょっとメンドクサイです。 引越し屋さんなんて、いないかしら。 それでは、次回は新店舗にてみなさまにお目にかかりたいです。 2008年10月12日(日)
突然ですが、みなさまにご報告があります。 本日を持ちましてこのブログ、3周年記念を迎えました! わー、パチパチパチ!(←拍手です) 私がミネソタ州ミネアポリスの片隅で旧『ミネアポリスつれづれ日記』を始めたのが2005年10月11日。なんとそれから丸3年が経過してしまいました。3年と言えば中学校や高校生活と同じ長さ、決して身近な時間ではありません。アメリカに来た当初は1年半で日本に帰国する予定で、このブログも1年半の期間限定のつもりで始めました。渡米二日目のまだ家具も日用品も何も揃っていないアパートで、日本から持参したノートPCをダイヤルアップ(!)で接続して、ブログ開設の手続きをしたことを今もはっきりと覚えています。改めて当時を思い返してみると、アメリカでの新生活に対する期待と興奮(少々浮かれ気味)、その一方で知り合いが誰もいない土地に来て、どこかで誰かとつながっていたいという不安や寂しさ、そんな想いがない混ぜになってブログを始めることを思い立ったのだと思います。が、その後帰国予定はズルズルと延び、それにつれてブログもそのまま延長。さらにはワシントンDCへ移り住むこととなり、ブログもタイトルを『転石生活』に変更しながらとうとう4年目に突入することになりました。こんなことになるなんて、ホント全く想像していなかったです。 私の性格は現実主義者かつ完璧主義者で、物事に対する決断が早く、決断したら即実行!が信条です。このように書くと聞こえがいいですが、その反面頑固で物事が計画通りに進まないと気が済まず、協調性にも欠ける集団行動が苦手なタイプです(そのくせ完全に孤立するのはちょっと寂しいのが厄介なところ・笑)。こんな性格の私がこの3年間で学んだことといえば「人生、先々のことをあれこれ考えてもムダ」、この一言に尽きると思います。なにせ完璧主義者なので完璧な計画を立てて、それを完璧に実行しないと気が済まない性分なのですが、アメリカで直面したあんなこと、こんなことは、全て自分の力ではどうすることもできない問題ばかりでした。癌が見つかったことやなかなか片付かないビザの問題はもちろん、ちょっとした文化の違いから生じる行き違いや、果ては態度の悪いカスタマーサービスまで(笑)、私が頭をフル回転させてあれこれ考えてみたところで、そしてきっちり計画を立ててみたところで、全然思うように進んでくれないのです。自分の人生のことだけど、自分の力でどうにもできないこともある、このことを事実をして受け止められるようになったのはつい最近のことだと思います。 このブログはそんな私の精神的・肉体的な日々の格闘で溢れています。怒りや悲しみをぶちまけたり、人にわざわざ言うほどではないちょっとした疑問を口に出してみたり、うれしかったこと大笑いしたことを「聞いてくださ~い!」と喜び勇んで報告してみたり。ブログは私にとってはフィルターのようなものだと思います。読み手を想定しながら「記述する」という行為には対象を客観視することが求められますので、こうしてブログを書き続けることで、多少なりとも冷静な目で自分自身を取り巻く環境を眺められたのではないかと思います。そしてそれがあったからこそ、この3年間アメリカという地で今まで何とかやってこれたし、色んなことがあってももうしばらくここでがんばってみようかなと前向きな気分でいられるのだと思います(まぁ、単に懲りない性格なだけなのかもしれませんが)。 こちらに遊びにきてくださっているみなさまには本当に感謝しております。みなさまが読んでくださると思うからこそ、今までこうやって書き続けることができました。ブログを始めた当初とは異なり、今やこちらの読者の大半の方は一度もお会いしたことのない方がほとんどとなりました。実際のお顔も名前も知らない方々とこのブログを通じて交流できるのが大きな楽しみであり、励みとなっています。もちろん現実世界のitoakiを知るみなさま、私生活を含めていつもどうもありがとう。近況報告をついついブログで済ませてしまってゴメンナサイ。今年になって環境の変化があったり、健康問題があったりして、今までのように頻繁に更新できないことが多くなってしまい、みなさんをお待たせする自分を歯がゆく感じるばかりです。更新のペースは落ちてしまうかもしれませんが、これからもできるだけこのブログは続けていこうと思っていますので、今まで通り遊びに来ていただけるとうれしいです。 というわけで、今日から4年目に突入です。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
2008年10月8日(水)
1ドル=99円ですか・・・。 日本の株式市場は米株式市場にひっぱられてボロボロのようですが、円だけは着実に対ドルに対して強くなっているようです。アメリカ在住、ドルで収入を得ている日本人からしてみると、株式市場の低迷よりも円高なのが精神的な痛手になります(実際の損害はないのですが)。私がアメリカに来てからもうすぐ3年になりますが、その間一番円安だった時で1ドル=116円ほど。それと比較するならば16%ちょっとの目減りです。今手元にある100ドルが日本で11600円になるのか9900円になるのかの差は大きいです。まぁ、すぐに日本に一時帰国する予定はないので、私が次に日本に帰る時までにはもうちょっとドル高に反動してくれていたらいいのですが・・・今のアメリカ経済のテイタラクぶりではそれもちょっと望めないかもしれません。 暗い前フリはこのくらいにして、昨日は日本に久しぶりに明るい話題が飛び込んできたようです。ノーベル物理学賞、化学賞の二分野において4人の日本人研究者の受賞が発表されました。2002年に同じ分野で日本人の受賞(物理学賞・東大小柴昌俊教授、化学賞・島津製作所田中耕一氏)が決まってから実に6年ぶりのことです。当時の小泉純一郎首相は日本人のダブル受賞が知らされた直後に「科学技術立国、3年連続。日本も捨てたもんじゃないね」という談話を発表しましたが、これはノーベル賞が個々人の業績を称える栄誉であるのはもちろん、受賞者を輩出する各国の「国家の威信」を維持するのに役立つ・活用されていることを示す良い例です。特に日本のマスメディアはノーベル賞の話題が大好きなので、ここ数日は4人の日本人受賞者の功績と足跡を伝えるのに大騒ぎとなるでしょう。もちろん私を含めた専門家ではない大半の人たちにとっては、受賞した研究の内容やその意義を理解するのはほぼ不可能に近いので、報道の内容も受賞者の「普段の姿」や「日本の科学技術の世界的地位」などに終始するのが通例です。 上で4人の日本人受賞者と書きましたが、こちらアメリカのメディアではノーベル物理賞の受賞者を"an American researcher and two Japanese researchers"と報道しています。南部陽一郎シカゴ大名誉教授がアメリカで市民権を得ていることから、南部教授をアメリカ人として紹介しているためです(なので米メディアに従うならば今年の日本人受賞者は3名となりますね)。「自分の国からノーベル賞受賞者が出た!」と言いたい気持ちはどの国も同じなので、南部名誉教授が日本では日本人と、アメリカではアメリカ人と紹介されるのはある意味当然だと言えます。南部教授がアメリカで市民権を得たのは1970年だそうで、日本で国籍法が改正された1984年以前のことです。国籍法改正以前は日本ではいわゆる二重国籍の扱いに関する明確な規定がなく(この年の改正によって二重国籍者の「国籍選択」が義務付けられました)、またアメリカではもとより二重国籍が認められているので、南部教授は日本・アメリカ両国の法規にのっとって「日本人でありかつアメリカ人」という身分を維持していることになります。なので日米どっちの言い分も正しいわけです(南部教授がわざわざ日本国籍喪失の手続きをしていない、と仮定しての話ですが)。 南部教授が日本を離れプリンストンのInstitute for Advanced Study にやって来たのが1952年、31歳のことだそうで、その後1956年にシカゴ大に移り1958年には37歳でfull professor となりました。とても若くして安定したポジションを得て、さらに日米の研究環境の差などを考慮して、きっともう日本に帰ることはないと思われたのでしょうか。渡米から市民権取得まで18年、労働ビザから永住権取得、さらには市民権の申請にかかる時間を考えると、わりと早くに市民権取得の決断をされたように推測できます。当時はまだ無期限の永住権が発行されていた時代ですが、冷戦のさなかでは特に軍事系の政府グラントでは申請者をアメリカ市民に限っていたこともあったそうなので、もしかすると研究の便宜上の理由からの決断だったかもしれません。南部教授が新天地を求めアメリカに渡ってから半世紀が経ち、今では大勢の日本人研究者が世界各国へと研究の場を広げています。私もその一人としてアメリカで研究活動を続けているのですが、いつか南部教授のように研究のために異国の地に骨をうずめる覚悟のできる日がやってくるのか、そしてそれだけのチャンスが果たして私にも巡ってくるのか、先のことが見えないまま、もうすぐ渡米して4年目に突入しようとしています。 2008年10月5日(日)
昨日、ちょっとした用事があってワシントンDCのお隣、ヴァージニア州アレキサンドリア(Alexandria) のOld Townと呼ばれるエリアまで行ってきました。アレキサンドリアはDCが誕生する以前からポトマック川沿いの港町として栄えた古い町です(1749年開港)。オールドタウンは同時から続く街の中心地で、今でも多くの歴史的建造物が保存されています。オールドタウンの目抜き通りのKing Streetには古い建築を活かしたおしゃれなセレクトショップやアートギャラリー、それにレストランやカフェなどが立ち並んでいて、週末ともなると大勢の人で賑わっています。 今日ご紹介するStabler-Leadbeater Apothecary Museum はオールドタウンにある歴史的建造物の一つです。apothecary というのは今でいう薬剤師・薬局ですが、19世紀中ごろまでのアメリカでは医師の数が少なく、一部のお金持ちや権力のある人しか医師にかかることができませんでした。apothecary はただ薬を調合して販売するだけではなく、医師にかかることのできない患者の症状から病名を診断したり、時には瀉血などの治療にあたったりもしていました(もちろん医師法は未制定)。Stabler-Leadbeater Apothecary は1792年にEdward Sabler という人物がオールドタウンでお店を構えたのが始まりで、その跡地の一部が現在博物館とし公開されています。・・・・・・本当は先週からもがき苦しんでいる原稿がまだ書きあがらず、羽を伸ばしている場合ではなかったのですが、オールドタウンまで来て何もせずに帰るのはあまりにもムナシクて(涙)。「研究のインスピレーションを得るため」という大義名分(?)を掲げて博物館に寄ってみることにしました。 館内はとても狭く展示スペースが限られているため、自由に見学することは許されておらず、必ず博物館のガイドさんによる30分の見学ツアーに参加しなくてはならない仕組みです。とは言ってもそんなに人気のある博物館ではないらしく、私の回のツアー参加者は私だけでした。 ![]() 一番最初の展示は薬局の販売カウンターです(上↑の写真です)。カウンター奥には調合済みの薬が瓶に詰められ量り売りされていたようです。写真では分からないと思いますが、薬瓶も全て当時のものらしく、瓶の一つ一つに手書きの古いラベルが貼られていました。中には'Dragon Blood'などという、何やら黒魔術を連想させるような薬もあります。ガイドさんに聞いてみたところ、そんなに得体の知れないものではなくネイティヴ・インディアンから伝わった薬草を煎じた薬で、当時わりと一般的だったみたいです。何かの木の根を煎じると非常に赤くなるらしく、その色からこの名前がついたのだとか。それにしてもなぜドラゴンなんでしょうね。 薬局では人間の薬だけではなく家畜用の薬、そして衛生用品や日用品までも売られていたようです。下の写真は当時売られていた人気商品の一つなのですが、何か分かりますか? ![]() 「尿瓶?」と思った方いませんか~?残念ながら、ブー!外れです。答えは哺乳瓶です。写真右上の黒い物体が赤ちゃんが口に含む乳首になります。何だか今のものよりかなり大きいような気がします・・・こんなんで飲みやすかったのでしょうか?同じく写真右下の哺乳瓶は乳首と一体型で、乳首もガラスでできています。ガイドさんの話だと、この黒のゴム製の乳首は今でもかなりゴムの臭いが残っているらしく、当時の赤ちゃんには強烈だったと思います。それならば少々硬いガラス製の乳首の方がまだマシだったのかもしれませんね(歯が生えてきたら危ないような気もしますが)。 ちなみに、私がガイドさんにあれこれ質問したせいで、最初の販売コーナーでツアー時間の30分のうち20分近くを費やしてしまい、残りは駆け足で見る程度になってしまいました(涙)。しかも、私があまりにも突っ込んだ質問をしすぎたのか、不審に思ったガイドさんに「もしかして薬剤師さん?何か専門の勉強でもしているの?」と聞かれてしまい、素直に「医学史の研究者です」と白状しました(笑)。でもアメリカの薬学史なんて全く専門外なので、知らないことばかりで単純に面白かったんです。 そんなこんなで急いで2階の薬の生産工場へと向かいます。 ![]() 工場内のあちこちに薬棚が設置されていて、その引き出しの中に薬の原材料が保管されていました。一つ一つの引き出しにナンバーが振られていて、それで在庫の調整をしていたそうです。かぼちゃの種やポピーの種、白樺の樹液などとラベルが貼られている引き出しもあり、今ならば天然由来成分、生薬配合として売り出せるかもしれません。 ここで面白いものを発見してしまいました! ![]() 左側の細い管とそれに平行して走る二つの黒い線、これはガス灯の管と初期の電気の室内配線なのです。配線に関しては1890年代くらいでしょうか?こんな物の何が面白いんだ、と思われるかもしれませんが、電気技術の歴史を齧った人間にはたまらないのですよ~。きっと最初はガス灯が使われていて、その後電灯にとって代わられたのでしょうね。この工場部分は非常に狭く窓がないので、ガス灯では常に不完全燃焼による一酸化炭素中毒とか、燃焼による室温の上昇とか、扱う材料によっては粉塵爆発の危険性もあったと思います。そこに全く新しい電灯という余分な熱を放射せず、ガス灯より断然明るい安定した技術がやってきたわけです。今でも残るガス管と配線は技術の新旧交代を私たちに物語ってくれています。 と、余計なことに気を取られているうちに30分のツアー時間は終了。もうちょっとゆっくり観たかったです。ただ展示物スペースが限られているうえに、展示物も少ないので、そもそもこの博物館のテーマ自体にあまり興味のない人だと物足りなく感じてしまうかもしれません(入場料は4ドルなので損をした気分にはならないと思いますが)。 というわけで、itoakiのお勧め度は ★☆☆☆☆ マニア向け、というところでしょうか。オールドタウンでショッピングと食事だけをするのでは物足りない、少しはアレキサンドリアの歴史にも触れてみたい、という人だけどうぞ。 オマケの一枚:オールドタウンに残る古い石畳。 ![]() どの石も角が削れてまん丸です。人間も石も年を取って丸くなっていくんですね。 2008年10月2日(木)
しまった~昨日の『Sexy Dirty Money』(←TVドラマです)を見逃してしまった~! 新シーズンの初回だったのに~。 去年脚本組合のストライキのせいで中断されてから、ずっと楽しみにしてたのに~。 私は普段全くと言うほどテレビを観ないのですが、なぜかこの『Sexy Dirty Money』だけは去年のスタート時から見続けています。NYを舞台にした超々お金持ちのDarling一家とその顧問弁護士を取り巻くお金や権力、そして男女の駆け引きを織り合わせた物語です。このDarling一家が毎回これでもかというほど贅沢豪遊三昧、わがままやりたい放題なので、まずこれが見ていて飽きません(「こんなことするヤツいないって~」とツッコミながら観るのが楽しい・笑)。そして彼らのわがままぶりが絶妙に物欲主義的かつ刹那主義的な、つい最近までのアメリカ社会の「浮かれ具合」もしくは「腐ってただれた感じ」を良く表現しているのです。もちろんあくまでもこれはドラマで、本当にDarling一家のようなものすごい暮らしをしている人が実在するかどうかは私には分かりませんが、経済的スケールをものすご~く縮小すれば、同じような考え方や行動パターンのアメリカ人は結構いるはずです。そしてこのなさそうでありそうなところというのが、このドラマの面白さだと思います(それにしてもDarling一家も今回の金融不安で大幅に資産を減らしたんだろうなぁ)。 今日は同じくテレビ番組つながりでもう少々。先日ちょっとしたきっかけでYoutubeで「トムとジェリー」のエピソードを見つけてしまいました。懐かしかったです~!私と同じ年代の方なら分かってくださると思いますが、私たちが子供の頃は毎日再放送(実際は再々々々放送くらい?)されていましたよね?最後に「トムとジェリー」を見たのが一体何年前になるのか全く思い出せないのですが、少なくても20年以上経っていると思います。久しぶりに改めて観てみると、良くできたアニメだなぁととても感心してしまいました。最近は「アニメと言えば日本!」などと言われ、日本製のアニメがもてはやされていますが1940年代のアメリカでこんなに面白いアニメが作られていたんですね~。特に印象的なのが挿入されている音楽です。オーケストラ調の曲やジャズの曲を場面に合わせて行ったり来たして、まるでシネマ黄金期のよう。音楽だけでも十分観賞価値があります。周囲のアメリカ人の友人たちに聞いたところ、「トムとジェリー」はそれなりに人気があったアニメだったけど、暴力シーン(=トムとジェリーのケンカ)が多すぎて子供には見せない家庭が多くなったのだとか。日本では「新トムとジェリーに」変わってしまってから、人気が下火になったように記憶しています。 それにしても今こうやって大人になって、しかもアメリカに住んでいる身で改めて『トムとジェリー』を見直してみると、自分のアメリカに対するイメージというか「アメリカ観」が『トムとジェリー』の影響を受けて形成されていたのを実感します。こんなことを言うと大げさだと思われるかもしれませんが、私が小さな頃漠然と「アメリカ人はこんな暮らしをしている」と思っていたイメージは、大概が『トムとジェリー』で描写されていた物ばかりだったのです。まずは舞台となる白い外壁の大きな家。前面にはフロントポーチがあり、時々ここにハンモックやイスが置かれていて、トムが昼寝をすることも。リビングルーム(今にして思えばファミリールームかも)には大きな暖炉があって、その前にはラグが敷かれている(←当時はラグという言葉を知らないので「丸い絨毯」と認識)。ダイニングには真っ白なテーブルクロスのかかったテーブルがあって、その上にはお決まりのキャンドルと果物カゴ。もちろん廊下はつるつる滑るほど磨きあげられたウッドフロアで、幅の広い階段にはなぜか中央部分のみカーペットが敷かれている。台所には小さな扉があってなぜかいつもそこからアイロン台が倒れてきて、そして何があるか分からないけどどうやら地下室もあるらしい(basementのことです)…などなど、思い出せば切がありません。 そしてたびたび登場するのがいかにもアメリカ的な食べ物でした。真っ赤な色したパイ(チェリーパイ?)やクリームだらけのケーキでトムとジェリーは良く「パイ投げ」をしていました(アイシングケーキってあったかな?)。お昼には3段いや4段重ねのサンドイッチと大きなコップに注がれたオレンジジュース(私の記憶が正しければフレンチフライやポテトチップスは添えられていなかったです)。時々トムがドーナッツを牛乳にダンク!して食べていました。夕食にはスープやキチンの丸焼き(もしかしてターキーだったかも)やら骨付き肉のステーキ、それにワインやシャンパンが並び、もちろんナイフやフォーク、スプーンといったシルバーウェアで食べます。そして食卓につくのは足元だけ写しだされた白人夫婦、トムはこの夫婦かもしくは二人が雇っている住み込みの黒人女性のお手伝いさんの飼い猫です。この夫婦には確か赤ちゃんもいました。不思議だったのがこの赤ちゃんのオムツがいつも横を安全ピンで留められていたこと。アメリカのお母さんたちはなぜオムツカバーではなく安全ピンを使うのだろうと、子供心に思ったものです。 今こうしてアメリカに暮らしてみて、私の抱いていたアメリカに対するイメージは半分当たっていましたし、半分外れていました。フロントポーチのあるコロニアルスタイルの住宅でリビングに暖炉があるお宅には何度もお邪魔しましたが、赤ちゃんのオムツを安全ピンで留める人には未だ会ったことがありません。アメリカ人の好物は今もパイですが、でもイベントでもないのにあんなに大きな骨付き肉のステーキや他の料理をテーブル一杯に並べて食べる家庭は少ないです(それならきっと外食するでしょうね)。そもそも私が見ていた『トムとジェリー』の映し出す世界は1940年代と遥か昔のことですし、今となればあの白人夫婦が当時で言っても決してメインストリームではなくアッパーミドルであったことも理解できます。「裕福な白人家庭に使えるいつも小言ばかりの太った黒人女性のお手伝いさん」というのも、現代の感覚から言えばステレオタイプであったことも明らかです。私は特段アメリカに強い憧れを持っていたわけではなく「トムとジェリーのような暮らし(?)がしたい!」とも思ったことはありませんが、それでも振り返ってみると『トムとジェリー』の映し出すアメリカの姿をいつもワクワクして観ていましたし、それがきっとどこかで私をアメリカに誘ったような気がします(最初はこんなに長居するとは思ってませんでしたが)。まぁ、単にテレビ番組に洗脳されやすいということなんですかね(笑)。 お時間のある方はぜひyoutubeで探し出してみてください。 特に在米の方・在米経験のある方、「あるある~」と思えることが満載だと思います。 2008年9月30日(火)
いや、秋ですねぇ(←しみじみ)。 先週末のDCエリアは冷たい雨が4日ほど降っては止み、降っては止み。雨が上がって昨日、今日は心地よい秋晴れのお天気です。まだ昼間は半袖姿の人をちらほら見かける一方で、薄手のコートにロングブーツで闊歩する女性がいたりして、ファッションは「夏秋」折衷というところでしょうか(まぁ、アメリカ人は真冬でも平気でTシャツ一枚になったりしますが)。私はといえば、昨日とうとう引越し以来しまいこんだままにしていた圧力鍋を取り出しました。圧力鍋は重いので、一度キャビネットの高いところに収納してしまったら、しまいっ放しになってしまいがちです。でもそろそろ夜は冷えるようになってきて、暖かい煮込み料理が食べたくなる時期、煮込み料理となると圧力鍋の出番です。さっそくチキンを半羽とたまねぎ、キャベツ、マッシュルームなどの野菜のぶつ切りに、トマト缶、にんにく、ローリエ、バジルなどを加えてシチューを作ってみました。お肉も野菜もトロトロで暖かくておいしかったです~。これからの季節に出番の多い圧力鍋には、キャビネットの一番下にお引越しいただきました。 さて、最近一つ困っていることがあります(今日締め切りの原稿がまだ全く書けていないことはさて置いて)。私itoaki、メガネっ子です。ソフトコンタクトレンズも使用していますが、最近はちょっとメンドクさくって、気合の入ったおしゃれをする時か激しいスポーツをする時以外はもっぱらメガネで過ごしています。乱視がひどく(裸眼で0.08/0.06)、メガネかコンタクト無しでは生きていけない体です。アメリカに来る前に、日本でメガネを二つ新調して来ました。一つは青のフレームで、これは読書やパソコンなどの近くを見る作業用として度を合わせ、もう一つはふち無しメガネで、こちらは車の運転時など遠くまで視力を出したい時用に合わせて作りました。でも渡米してもう3年近く、当たり前ですがメガネの度がどんどん合わなくなってきました。特にふち無しのメガネの方がひどくて、最近では車を運転していても標識が見えにくいのです。どう考えてもレンズ交換の時期がやって来たみたいです。 今年から新たに入ったvision care insurance(眼科専用の健康保険です)は、メガネやコンタクトレンズにも適用されることになっています。どちらか一方だけですが、メガネだと年間300ドル、コンタクトレンズだと190ドルまで保険がカバーしてくれます。コンタクトは全額自分で支払っても私の場合年間190ドルもかからないので、ここはメガネの300ドル分を保険で支払ってもらう方が断然おトクです。ただ300ドルでは私の場合、レンズを新調する料金しか賄えません。なにせ本当に目が悪いので、高品質(=高価格)の超薄型レンズを使わないといわゆる「牛乳瓶」のようになってしまうのです(涙)。日本でもいつもフレーム抜きのレンズだけで3万円は払っていました。それに度が合わなくなっても、ふち無しメガネのフレームそのものは今もとても気に入っています。なので、ここは保険を使ってまずはふち無しメガネのレンズ交換をしてもらおう、青いフレームのメガネの方は来年年が明けたらまた保険の300ドルで作り直そう、という決断に至りました。 ・・・が、物事は往々にして計画通りに進んでくれないものです。まず、日本と違ってふち無しメガネを扱っているメガネ屋さんがあまりないんです!日本だと大抵どこのメガネ屋さんでもふち無しメガネって売ってますよね?こちらではあまりふち無しメガネに人気がないらしく、扱っているお店がなかなかないんです。しかも扱っていないお店にレンズ交換をお願いしてみても「ウチではふち無しメガネを売ってないから、レンズ交換もできない(技術がない)」と断わられるのです(涙)。断われたメガネ屋さんの店員さんに「どこかふち無しメガネを扱っているお店を教えてくれないか」とお願いして、一店だけ個人経営らしいお店を教えてもらったのですが、そのお店はそのお店で「うちではふち無しメガネを売ってはいるけど、レンズ交換だけはしていない。」と応じてくれず・・・。「フレームとレンズを一緒に買うんだったら対応するよ」と言うのですが、そんなの当たり前ですよね。メガネとレンズ買ったお客さんに「後は自分で組み立ててね」なんて言うめがね屋さんなんてないよねぇ。 確かにふち無しメガネのレンズは左右2箇所のねじで固定されているだけなので、そのねじがゆるすぎるとレンズが落下したり、きつすぎるとレンズにヒビが入ったりして扱いが難しいです。でもそんなに毛嫌いしなくったって良いのに・・・。あのサラ・ペイリン氏もふち無しメガネの利用者で、彼女のおかげで最近人気が出てきたという話なのに。気に入っているふち無しフレームを捨てるのには忍びなく(フレームだけで3万円近くしたし)、かと言ってこのままだとレンズ交換をしてもらえず、度の合わないめがねで過ごさなくてはならないし・・・。どうしたものか、未だに思案中です。
2008年9月28日(日)
昨日National Book Festival に行ってきました。このイベントは読書の楽しみをより多くの人に広めようと、2001年にLibrary of Congress(議会図書館)と現ファーストレディ・ローラ・ブッシュ夫人によって始められたそうです(今年で8回目・・・来年からはどうなるんでしょ?)。"Chidren"、"Fiction & Mystery"、"Hostry & Biography"など6分野で活躍する著名な作家たちを招いて講演やサイン会を行います。今年の目玉は何と言っても主催者でもあるローラ・ブッシュとその娘ジェンナ。二人は今年共同で子供向けの本を出版したことから作家として講演とサイン会を行いました。夫(ブッシュ大統領)の支持率は史上最低と言われていますが、ローラ・ブッシュは国民から愛されているファーストレディーなので、彼女のサイン会には朝早くから大勢の人が行列を作ったそうです。 かくいう私のお目当てはファーストレディーではなく、本日のタイトルにもあるようにRobert Sabuda。彼は今までにはない新しい形ののPop-up book(飛び出す絵本)を生み出したと言われている作家です。 ![]() 上↑は"Winter's Tale"という作品の1ページです(写真はRobert SabudaのHPから拝借しました)。日本でも彼の作品はたくさん翻訳されているので、ご存知の方も多いと思います。私はPop-up bookが大好きで色々と集めているのですが、特にRobert Sabudaの作品に特に惹かれます。彼のpop-up bookはページ毎にメインの仕掛け以外に小さな仕掛け(隠れキャラ?)が仕込まれていて、これがおもしろいんですよね~。最近のRobert Sabuda はMatthew Reinhart と共同で作品を手がけることが多く、今回のNational Book Festival にも二人揃ってやってきました。 午後3時半からの講演に先立って1時半~2時半に彼らのサイン会があったのですが、そちらは諸般の事情により参加できず・・・というか今月末締め切りの論文が全く書けてなくて時間的余裕がありませんでした。それにいくら好きな作家と言えども、あいにくの雨模様の中長い行列を作るほどサインに興味がなかったんですよね、その時点では(←ここ要注意)。そこでサイン会はあきらめて講演会場へとまっすぐ向かい、前の前のスピーカーの時からベスポジ(前から2列目!)を陣取り、二人が登場を今か今かと待ち構えました。・・・ちなみに、カメラを持っていかなかったんです~(涙)。サインと同じく、家を出る時は「いくら好きな作家でも写真まではいらないや」と思ったんですよね。でもいざ至近距離で彼を見ると「いや~んステキかも~、写真取りたい」と後悔の嵐。いや今回、自分が思っている以上に俗物的であることを知りました。肝心の講演内容ですが、講演と言うよりもpop-up の実演会でした。二人は画用紙とマジック、そしてはさみで簡単な仕掛けを数パターン作って見せてくれました。なにせイベント上彼の作品は"Teens & Children"のカテゴリーに入れられていたので、親子連れ向けの企画だったのかもしれません。けれど実際には私のような大人のファンが大勢詰め掛けていてたので、そういうファンはもっと作品の発想とか制作上の裏話などを聞きたかったのではないかなと思います。残念です。 そんなこんなで30分の講演はあっと言う間に終わってしまったのですが、講演終了後なんと二人がファンに囲まれて気さくにサインに応じているのです!「サイン会じゃなくてもサインしてもらえるじゃん~、私も本を持ってくるんだった~」と、ここでまたもや大後悔の嵐。急に彼のサインが欲しくてたまらなくなります。けど手元にサインを頼めるようなノートもなく・・・でも、どうしてもこのまますごすご帰りたくはありません。そこで「サインが無理ならせめて握手だけでも・・・」と考え、何とか人ごみを掻き分けて二人に近づいていきます。日本だと有名人を見かけて「ファンなんです~握手してもらえますか?」とお願いするのは割と一般的(?)ですよね?でもいざこんな状態になってよくよく考えてみると、英語だと何て言ってお願いすればいいのか良く分からないのです。もちろん'May I shake your hand, please?' とでも言えば意味は通じると思いますが、こんなことを「改まって」お願いしたらきっと変な人と思われると思います。もちろんアメリカでも日本と同様に、有名人と握手ができて喜ぶ人はたくさんいますが、それはあくまでも有名人とちょっとした'personal communication'が図れたことのオマケとしてついてくるものであって、わざわざ握手という行為そのものをお願いするものではありません。 こうなったらなんとか彼と会話してその中で「自然に」手を差し出してみるしかない―そう決意して、たくさんのファンに囲まれているRobert Sabudaに思い切って話しかけてみることにしました。何とか彼の気を引こうと発した第一声は「日本から来ました」。ま、ウソではないです。すると彼はサインする手を休めて私の方を見てくれたんです!もうその時点で私はかなり舞い上がってしまって、とにかく「日本でもあなたの作品はとても人気があります。私の母や従兄弟にあなたの本をプレゼントしたら二人ともとっても気に入って、あなたのファンになりました。日本にたくさんファンがいることをどうしても伝えたくて・・・」といった内容のことを興奮状態で口走ったところ、なんとっ!Robert Sabuda の方から"Oh, thank you."と言って手を差し出してくれたのです!握手成功です!もぉ、うれしかった~!その後も「日本には2度行ったことがあるよ」とか「日本限定の作品も出してみたんだよ」などを話し続けてくれてました。でもなにせ大勢の人がまだサインのために待っていた上に、すぐ横でイベントの係りの人が迷惑そうな顔で睨みを利かせていたので、最後に「今日の講演とても面白かったです。次の作品を楽しみにしています」とお礼を言ってその場を立ち去りました。 はぁ、とっても幸せでした・・・。 これでしばらくはツライ締め切りにも耐えられるような気がします。
2008年9月25日(水)
先ずは昨晩に行われたブッシュ大統領による緊急国民向けテレビ演説に物申す。 何としてもあの7000億ドル(1ドル=105円として73兆5千億円!)緊急経済支援策を議会で通したいみたいだけど「この法案が成立しなかったらアメリカ経済は完全に破綻!」とか「すぐに失業者だらけ!」とか「もう誰も家を買えなくなる!」とか、とにかく国民の不安を駆り立てて同意させようとする魂胆がミエミエ。これじゃ完全に脅しだよ。取って着けたように「この法案は特定の金融機関や個人を救済することを目的としていない。一般市民や個人事業主を救うのが目的だ」って言ってるけど、そんなん当たり前じゃん。連銀のバナーキンも財務長官のポールソンももっともらしい事を言って経済支援策の必要性を訴えているけど、全く信用ならんね。金融市場で信用不安が起こったのは去年の夏なのに、バナーキンは打つ手なく事態を放置、ポールソン至ってはゴールドマンサックスの前CEO、それまで散々キワドイことに手を染めてボロ儲けして、年収30億、40億円とか稼いでいたくせに、困ったら「税金で尻拭いさせたらいいじゃん!」なんて、オマエが言うなっつーの。そりゃさ、事態が深刻なのは理解できるし大規模な政策介入が必要なのも納得するけど、具体的な使途が未定なまま「7000億ドル必要です~、後でもっと必要になります~、あの子たち(金融機関)には後できつく言っておきますから、とにかくさっさとお金出してくださ~い」なんて言われて、「分かりました~」って素直に言うヤツいないって。 ******************************** ・・・コホン、気分を変えまして昨日の続きです。昨日はビザの問題が解決できず、結局新しいポジションに就くことができなかった(6月)というところまでお話したと思います。 7月になって学会の準備でますます奔走というか翻弄されている時に、ミネアポリスから衝撃的なニュースが飛び込んできました。詳しい説明は省きますが、ミネソタ大学で私が所属している(いた?)プログラムのDirector Jが突如引退を発表したのです。私だけではなく他のfacultyも院生にとってもみんな寝耳に水のことでした(これについてはまた後日書かせていただきたいと思います)。Director Jは引退宣言の1週間後には他州に引っ越してしまいました。困惑したのは残されたfacultyです。新学期から明らかに人手が足りません。新しいFacultyを採用することはできますが、時間的にみて新学期にはとても間に合いそうにありません。そこで白羽の矢が立てられたのが私、でした。DCエリアに来てからもミネソタ大学の友人とは常に連絡を取っていたので、私がビザの問題でこちらでの就職を失ったことも話していました。私はその当時まだ書類の上ではミネソタ大学に「雇用」されていたので、その契約期間を延長してとりあえず秋学期の期間2クラス担当してもらえないか・・・とのお誘いでした。 これとほぼ同じ時期に、DC市内にある某博物館からもあるお誘いをいただきました。その博物館は、昨日お話した研究機関で「ボランティア」をしていた時に何度か資料を観に訪れていたのですが、私の事情を知ったcuratorの方が博物館所蔵の日本関連資料を使って研究をしてみないかと声をかけてくれたのです。その博物館には日本語を理解できる人が全くおらず、かなりの点数の日本関連資料を所蔵しているにも関わらず、きちんとした整理もされぬまま長年誰の目にも触れることなくほぼ放置されていました。今回その博物館が3年後に新しい建物に移転することが決まったそうで、その移転準備の一環として未整理資料の整理・保存を行うことになったようです。博物館は私を「雇用」するのではなくfellowshipという形で資金を提供してくれ、私はそのお金を使って博物館所蔵資料を用いて研究活動を行う傍ら資料の整理にも協力する、というお話でした。 二つのお誘いをいただいて、私が下した決断と言うのは「ミネアポリスとDCを行ったりきたりする」というものでした。1週間のうち2日をミネソタ大学でのteachingにあて、残りをDCの博物館での研究に充てようと考えたのです。私がミネアポリスにいた時にいつも良くしてくれた同僚たちのために少しでも力になりたい、これでちょっとは恩返しができるとも思いました。クラスは1クラス当たり12回で約3ヶ月、ミネアポリスとDCは飛行機で2時間なので往復しても体力的にも金銭的にもそんなに大変なことではないと思いました(ミネソタ大学からは交通費援助も取り付けましたし)。でも、結論から言うと・・・この計画が実行に移されることはありませんでした。こちらの日記でもお話しましたように、癌が見つかったからです。最初は7月末に手術すればそれで全て終わる、手術から新学期開始まで1ヶ月以上あるからその間に体力も回復するはず、と思っていたのですが、本当に明日のことは分からないもので、手術は成功せず、継続して治療を受けなければならなくなってしまいました。どう考えても毎週ミネアポリスとDCを行ったりきたりするのは今の私には難しいと判断せざるを得ませんでした。 ミネソタ大学の同僚たちにはかえって大きな迷惑をかける結果となり、本当に申し訳なかったです。一度は「二クラスできるよ~任せておいて~!」なんて返事していたのに、「ごめ~ん、やっぱりできな~い」と約束を反故にしてしまったのですから。本当に、本当に申し訳ない気持ちで一杯です(同僚Jと同僚J、ごめんなさい)。さらに申し訳ないことに、一度はクラスを引き受ける返事をしてしまったせいで私の雇用を継続する手続きは終了してしまい、さらには既にどこからかお金を引っ張ってきてしまったようで、新学期からもこれまでと同様、私はミネソタ大学のポスドクとしてお給料をいただく身分となってしまいました・・・(とは言ってもteachingがない分、金額は微々たるものなのですが)。大学院生二人が私の「論文指導クラス」に登録しているのでそれで少しはご奉公したいと思っています。ってこれできちんとした仕事をしないと単なるサギですよね・・・(恥)。 と言うわけで、今誰かに私の身分(affiliation)を尋ねられれば「ミネソタ大学のPostdoctoral Associate かつ某博物館のVisiting Research Associate」と答えることになります。最近は週に3,4日ほど博物館に通う毎日です。博物館内の自分のオフィスで過ごすのが半分、残り半分は倉庫で埃のかぶった資料と格闘するのが半分、というところでしょうか。博物館の名前を伏せる必要はないかもしれませんが、ミネアポリスと違ってこちらには日本人がたくさん住んでいるので、人物特定につながる情報を公表するのにちょっと抵抗があります。でもそのうち我慢しきれず(?)白状するかもしれませんが(笑)。それにしても今までartifactsを扱った研究をしたことがないので、なかなか研究の方向性を見出せずウロウロしています。でもこういう時こそ新しいアプローチ・題材に挑戦するチャンスだと思はなくてはなりませんね。引き出しを増やす時間があるといのは研究者として恵まれていることだと思います。まぁ、すぐ論文として成果が上げられるかどうかはナゾですが・・・。
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